例会報告 (掲載 2020年3月29日)

開催日:2019年5月12日から10月21日まで
第七のおきて:汝盗むなかれ
担当:アロイジオ 岩井聡一

 私の勉強会報告は、テキストも含めていますので、全体が長くなっています。参加されていない方々にも、これらのテキストを見ていただき勉強会を一緒に行っていただければと思いますので、ご了承ください。カテキズム要約が勉強会の教本で、503-520です。カトリック教会のカテキズム(カテキズム)が並行して資料として使用されます。テーマ別に分けて進めていきました。
テーマ 1: 富、財産と使い方  503,504,505,520  YOUCAT 426,427
テーマ 2: 被造物、動物への態度 506, 507 YOUCAT 436-437
テーマ 3: 盗みの定義:教会の社会教説,社会問題への介入
      508 ,509-512 YOUCAT 428-435,438-442
テーマ 4: 労働、労働者、企業経営者のあり方 513-517 YOUCAT 443-446
テーマ 5: 諸国間の連帯/ キリスト者のあり方
      518-520 YOUCAT 446-451 (440,441)
参考文献は、
・YOUCAT (Japanese version) 箇所は上記記載,
・DOCAT (English version) 84, 135, 137
・教会の社会教説綱要 教皇庁正義と平和評議会
 カトリック中央協議会 p80-94,p216-218, p268-21

テーマ 1: 富、財産と使い方 503, 504, 505, 520  YOUCAT 426,427
 富の普遍的使用目的、冨の分配、私的所有権は、共通善という観点から尊重するように求めています。富の普遍的使用目的とは“ 富はすべての人の基本的な必要を満たすためのものである”と述べています。共通善とは、「集団とその構成員とが、より完全に、いっそう容易に自己の完成に達することができるような社会生活の諸条件の総体である」とカテキズムでは定義しています。共通善の3つの要素:第1の要素は、個人をその人であるがゆえに尊重することです。共通善を実現するために、権威を公に行使する人々は、個人個人が持っている基本的人権を尊重しなければなりません(カテキズム 1907)。第2の要素は、共通善が集団の社会的安寧と発展を求めるものであるということです(カテキズム 1908)。第3の要素は、平和です(カテキズム 1909)。共通善こそが、個人と社会の合法的防衛権の土台となる大切なものなのです。
テーマ 1で重要なことは次の箇所です
 “人間は財の使用に際して、自分が正当に所有している物件を自分のものとしてばかりでなく共同のものとしても考えなければなりません。すなわち、物件は自分のためばかりでなく、他人のためにも役立つようにという意味においてです” カテキズム 2404
 “財貨を所有するということはその所有者が神の摂理の管理者にされるということであり、当人はその実を結ばせ、手にした利益を他の人々と、まず第一に隣人と分かち合うべきなのです。”(149) 現代世界憲章69   
 “使用財や消費財の所有者は節度をもってこれを用い、最良のものは、客や病人や貧しい人のために残しておかなければなりません。” カテキズム 2405
 こんなことは本当にできるのだろうか!という自己反省を感じつつ進めて行きました。
 「金持ちの青年の話」(マルコによる福音書10章17-22節、 マタイによる福音書19章16-26節)の話しをしました。“ある青年がイエスに近寄って「永遠の命を受けるためには、どのようにすればいいのでしょうか」と尋ねました。イエスは、律法の掟を守りなさい、と。「子供のときから守っています」と青年は答ました。イエスは彼をじっと見て、愛情を込めて言いました。「あなたに欠けていることが一つある。行って、もっている物をことごとく売り、貧しい人に施しなさい。そうすれば天に宝を蓄えることになる。それから、わたしについて来なさい」。青年はこの言葉を聞いて、悲しみ、沈んだ顔つきで去って行きました。多くの財産を持っていたからです。この話のあとで、聖書は「富の危険」についての記述をしています。”イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」イエスは彼らを見つめて、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と言われた。弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。“
 元来ユダヤ人は、この世の財宝は神の祝福のしるしと見ていました。それで弟子たちは、現世の富や財宝を危険視するイエスの言葉に驚いたのです。しかし、イエスは当時の常識をくつがえすように、この世の富や財宝に執着せず、最も大切な神の国の「永遠の命」を求めることが肝要であると呼びかけているのです。現代のわたしたちも、経済的豊かさを求めることだけに、気を奪われていることには問題がありますね・・・・・
 また、有名な金持ちとラザロはイエス・キリストのたとえ話: ルカによる福音書16章19~31節もあります。みなさんどのように感じられますか?
 “正当な手段で得た収入・財産は、それ自体は悪でない。使い方次第ですよ。お金に心を奪われてはいけませんよ!“ということでしょうか? 全ての財産を売り払って、貧しい人に施すこと。マザーテレサのように実践された方は本当に貴重で、すばらしいですが、皆ができることではないのも現実です。イエス様は、“完全になりたいのなら、、、”と条件をつけておられます。多くの人々は完全にはなれないので、全ての財産を売り払うことはできません。しかし、富に心を奪われ支配されてはいけません。自分の得た財産は、神様から託された冨であるから、どのような使い方をしてもよいのではなく、貧しい人のことも考えて、分け与えなさい。とわれているのでしょう。ここで大事なのは、一人一人が財産を得た時、どのように考え行動するのか?ということを、全て神様が見ておられるということだと思います。

テーマ 2: 被造物、動物への態度 506, 507 YOUCAT 436-437
このテーマの基本事項は、キリスト教の世界観として
 “動植物を始めこの世界のあらゆる物は、神様の似姿として造られた被造物である人間のために、神様が造られたものであり、人間は神様からその使用、管理を任されている。だから、人間はそれを適切に使用しなさい。“ ということであり、異論はないように思います。
 506では、動植物だけでなく鉱物資源などが列挙されています。現実的に、石油、石炭、稀少鉱物などは、全世界の人々のために、適切に配分され使用されているとは言えず、国家の戦略として駆け引きにも利用されている面があるからです。
 507で特に動物に対する人間の態度について述べています。
1、動物は神によって造られたもので、神は動物に摂理的な思いやりを注いでいる
2、人が、動物を食料や衣類として用いることは正当である
3、医学的科学的実験は、人類の生命を救うことに役に立つかぎり倫理的に容認できる
4、動物に無益な苦痛を与えたり、みだりに殺害したりするのは、人間の品位に反する
5、人間のために用いられるべき金を動物のためだけに使うのはふさわしくない
動物を愛してもかまわないが、人間だけが受けるにふさわしい愛情を動物にそそいではだめ。人への愛情以上に、動物を溺愛するのはよくない。
ペットのお墓について:キリスト教世界観では、人間以外の動物は神が人間のために造られた物で、死んでしまったら魂はなく、復活もないので、お墓は必要ないといことになります。仏教的世界観では、輪廻転生の概念があり、お寺がペットのお墓を経営している場合もあります。一般的に日本人は、ペットのお墓を矛盾には感じていないようです。参加者の意見も、様々でした。

テーマ 3: 盗みの定義 508 YOUCAT 428-435
 第七のおきてはまず盗みを禁じています。それは所有者の正当な意志に反して、他人の財貨を横領することです。不当な賃金の支払い、他人の資産の見積もりに当たって彼に損害を与えて不当な利益を得ること、小切手や請求書の偽造もこれに当たります。その他、脱税や商取引上の詐欺、私有財産や公共財に意図的に損害をもたらすことも禁じています。高利やわいろ、公共財の私物化、犯罪的な手抜き工事、浪費も禁じています。508の記載内容は、異論がなく当然のことだと思います。

教会の社会教説,社会問題への介入 509-512 YOUCAT 438-442
 教会の社会教説について、教皇庁、各国司教団のコメントなどについて、勉強しました。
YOUCAT 438は以下のように述べています。
“神の子どもとして、すべての人には固有の尊厳があるので、教会には社会に関する教えによって、社会的領域にあるすべての人の人間の尊厳を実現するために尽力する努めがある。教会は、政治や経済に干渉しようとはしていない。けれど、政治や経済の分野で人間の尊厳が侵されていれば、教会は何らかの発言をしなければならない。”
社会教説あり方、定義について、DOCAT 84 に記載があります。
The Principles of the church’s social teaching Catholic social teaching has four principles
1 Personhood個性, 2 Common Good共通善, 3 Subsidiarity補完性, 4 Solidarity連帯
和訳:これら4つの原則によって、我々は人間社会全体の中で人間社会をしっかり把握し、正直にその現実を考えることができる。何故、これらの原則が適応するのでしょうか?第一に、これらが道理に適っているからです。第二に、理性・判断力によって照らされたキリスト者の信仰から生じたからです。信じる者は、神の御旨(命令)に従おうと思います、特に、 “神を愛し、隣人を愛しなさい“という最も偉大な命令に対して。今日では、キリスト者は様々な社会問題に直面しています。個人、集団、国家の間の各々の場合における関係に対する疑問があろうともなかろうともカトリック社会教説の4つの原則の助けによって、我々は、真の人間的、社会的恩恵と正義が何であるかを伝えることができるのです。
 それでは、510 どのような場合に教会は社会問題に介入するのでしょうか?“教会は、人格の基本的人権、共通善、あるいは霊魂の救いが要求するときに、経済的、社会的問題に道徳的判断を示すことによって介入します”「教会の社会教説綱要 カトリック中央協議会」第一部第二章の三(p80-95)に現代における社会教説の歴史が記載されているので、勉強しました。
・社会教説は、ピオ十一世にさかのぼり、レオ十三世の回勅「レールム・ヴァルム」から始まるローマ教皇と、教皇と交わりのある司教たちとの教導権を通して教会の中で発展してきた
・十九世紀に起きた経済現象、産業革命に関連する出来事、、、によって、資本家と労働者の対立が原因となる最初の大きな社会問題である労働問題をもたらした、、そして、賃金労働者が置かれた状況について検討された、、
・「レールム・ヴァルム」は社会悪を引き起こす誤りを列挙し、社会主義を解決策とすることを否定し、同時代の正確な言葉で“労働、私的所有権、社会改革のための根本的な手段として用いられた階級闘争の代わりとしての協調の原則、弱い者の権利、貧しい者の尊厳、富める者の義務、愛による正義の充実の必要性、職業別の団体を作る権利についてのカトリックの教義”を明確に示している。
・ピオ十一世は、ヨーロッパで力を持っていた全体主義(ファシズム)に対する反対の声を上げた。「ノン・アビアモ・ビソニョ」(イタリアのファシズムに対して)、「ミット・ブレンネンデル・ゾルゲ」(ドイツのファシズムに対して)等を発布した。
・ピオ十一世は、無神論的共産主義とキリスト教社会教説に関する回勅「デイヴィニ・レデンプトリス」において、これを本質的に邪悪なものと判断した。
・第二バチカン公会議の司牧憲章「現代世界憲章」は現代世界への、教会の重要な答えです。
・第二バチカン公会議のもう1つの非常に重要な文章は、信教の自由の権利が宣言されている「信教の自由に関する宣言」です。
・パウロ六世は使徒的書簡「オクトジェマ・アドヴェニエンス」において、レオ十三世の社会教説を取り上げ、それを現代化した。
・教皇ヨハネ・パウロ二世は回勅「働くことについて」において、人間の根源的な善であり、経済活動の主要な要素であり、あらゆる社会問題の鍵でもある労働を取り上げた。

 このように、その時代の問題に対して、カトリック教会が真摯に向き合ってきたことがよくわかりました。教会が社会問題に介入する必要性は理解できました。しかし、その時期、その方向の判断は、現実的にはとても難しいと思いました。政治的介入との境界線はつねに曖昧な点があるからです。けれども、危機的状況において、カトリック教会が社会に介入することは、これまでみてきたように大切なことだと思いました。
カテキズム 2425: “カトリック教会は、無神論的な共産主義・社会主義は全体主義につながり、一党独裁で言論の自由を迫害し、時には信仰も弾圧することにつながるので、認められない。他方、資本主義構造の中での個人主義と、人間の労働に対する市場法則至上主義とを排斥する。“という趣旨を述べています。

テーマ 4: 労働、労働者、企業経営者のあり方 513-517 YOUCAT 443-446
 513では労働は人間にとってどのような意味を持っているのかを示しています。“労働は人間にとって義務であり権利です。労働を通して人間は創造主である神と協働します。事実、意欲と適性をもって働くことによって、人は自分の本性の中に刻まれた能力を実現し、創造主から与えられたたまものと才能を高め、自分と家族の生活を支え、社会に貢献します。さらに、神の恵みによって、労働は自己を聖化し、他社の救いのためキリストと協力する手段となります”
カテキズム 2426:経済生活が目指すべきものは、一人一人の人間、全ての善良な人間、人類共同体全体への奉仕である。経済活動は人間に対する神の計画と調和するために、社会正義に基づきながら倫理の範囲内で行われるべきです。
カテキズム 2427:聖パウロ“働きたくない者は食べてはならない”(2テサロニケ 3章10節)労働は創造主からの賜と受けた才能を大事に生かすこと。あがないの価値を持ちます。
カテキズム 2428:労働は人間のためにあるもので、人間が労働のためにあるのではない(ヨハネパウロ二世)
カテキズム 2460:労働を通して創造のわざに参加する。
DOCAT 135:人間の労働について、労働はアダムとイブの堕落によって楽園追放されたこと、すなわち罪の罰であるという考え方を否定します。 教会の社会教説綱要 第六章 にも記載されています。労働を通して人間は創造主である神を協働する(513)。“主なる神は人を連れてきて、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた” 創世記2章15章 
・私達は、労働を通して創造のわざに参加するということが重要だと理解できました。

513, 514では、国家の責任と個人の責任について述べています。
 カテキズム 2431:国家の第一の任務は、労働と生産に携わる人々が自己の労働の成果を享受し、それによって有能かつ誠実に働こうと思えるように、個人の自由と私的所有の保障、安定した通貨と効果的な公共サービス等の諸条件を保証することです。もう一つの任務は、経済部門における人権の行使を監視し、指導することです。しかしながら、この分野における第一の責任は、国家ではなく、社会を構成する個人、集団、団体にあります。 という主旨を述べています。(178)ヨハネ・パウロ二世「新しい課題」48参照
516では、企業の経営者は、利潤の追求だけでなく、社会への貢献、企業内の労働者の幸福も考えて、経営を行うことが大切であり、キリスト教の精神に合致するということだと述べています。
517は労働者のあり方について述べていて、YOUCAT 439, 444, 445に具体的に記載されています。
YOUCAT 439:教会は、労働組合の設立を支援し、法の整備と政府による保証によって労働者を搾取から守り、病気、緊急事態に備え労働者とその家族のために保険をかけることを推奨している。  
YOUCAT 444:労働者の失業問題は確固たる意志を持って取り組むべき問題である。
YOUCAT 445:労働は資本に優先する。 
教会は常にこの原理を教えてきました。(ヨハネパウロ2世勅「働くことについて」)お金や資本は物として所有できるが、労働はそれを行う人間と切り離せません。労働者の基本的要求が資本の利益より大切な理由はここにあります。
さらに、労働条件改善のためのストライキについても認めています。
 カテキズム 2435 :ストライキは、それが労働に見合った報酬を受けるためにはやむをえないか、むしろ必要でさえあるということが明らかな場合には、倫理的にゆるされる行為です。暴力を伴ったり、労働条件とは直接には結びつかない目的を持っていたり、共通善に反するような場合には、倫理的にゆるされるものではありません。
このように、カトリック教会の社会教説は 皆が人間らしい生活を送ることを可能にする賃金を主張し、富裕層に対しては節制と連帯と分かち合う徳の実践を求めています。

テーマ 5: 諸国間の連帯/ キリスト者のあり方 518-520 ,YOUCAT 446-451(440, 441)
518 国際レベルで、すべての国や機関は連帯と補完性に基づいて活動しなければいけない。それは貧困や資源と経済手段の格差、経済的・社会的不正、人的搾取、貧困国の債務の累積、開発途上国の発展を妨げる悪辣な機構を根絶するため、あるいは減少するためである。
519 信徒はキリスト者としての精神をもって現代の諸問題に新たな息吹を吹き込み、福音の真正な証人、平和と正義の働き手としてすべての人々と協力することによって、直接的に政治生活や社会生活に参加するべきです。
カテキズム 2437-2441に詳細記載がありますが、やや抽象すぎる表現が多いように思いました。YOUCATは具体的です。
YOUCAT 448 豊かな国には、開発援助と、適切な経済的・商業的条件を確立することで、低開発国が貧困から抜け出せるように助ける倫理的義務がある。
グローバリゼーションについても記載されています。グローバリゼーション:社会的あるいは経済的な関連が、旧来の国家や地域などの境界を越えて、地球規模に拡大して様々な変化を引き起こす現象である。 YOUCAT 446 グローバリゼーションそのものはよいものでも悪いものでもない。
しかし“安いジーンズを買うとき、わたしたちはそれが製造された状況と、それを作ったひとが正当な賃金をもらっているかどうかという問題に無関心であってはいけません”(ベネデイクト16世 ヨハネ23世) YOUCAT 447 グローバリゼーションの時代では、利潤は世界規模で得られるのに、政治は殆ど国の枠内に限定されている。今必要なのは、多国間の政治的機関の強化だけでなく、より貧しい地域で、連帯と愛の精神から経済活動を行う個人や社会的グループである。
 カテキズム 2478を見ると、本当に政治家や企業経営者等がこのような意識を持って行動することが求められていると感じました。参加者からメルケル氏(ドイツ連邦共和国首相)の本「私の信仰」が紹介されました。メルケル氏は熱心なクリスチャンであり、自分の行動・判断が聖書に適うものなのか、いつも自分に問いただし、自分の政治判断で不利益を被ることになった人々への思いやりにも言及しています。
 カテキズム 2442: 政治体制の構築や社会生活の組織づくりに直接に介入することは、教会の司牧者の任務ではありません。この任務は信徒の召命の分野であり、信徒は他の一般市民と力を合わせながら自らの発意でそれを果たさなければなりません。社会活動はつねに共通善を目指し、福音と教会の教えに従って行われなければなりません。…(193) ヨハネ・パウロ二世「真の開発とは」 47,42参照

本章最後のテーマ:520 貧しい人々への愛は何によって促されますか。
貧しい人々に対する教会の愛は,,教会の普遍の伝統となっています。
YOUCAT 449 貧しい人には、何かしらの施しを受ける権利があるばかりでなく、正義を要求する義務がある。 キリスト者は、自分たちの財産を分かち合う特別な義務がある。貧しい人に対する愛の模範は、キリストである。
 カテキズム 2443-2449最後まで、聖書から多くの引用がされていますので参加者で読んでいきました。
* 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこのもっとも小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」 (マタイ25・40)
* 「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」 (マタイ5・42)
* 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」 (マタイ10・8)
* 「貧しい人に福音が告げ知らされる」 (マタイ11・5) 
* 「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、誰よりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は乏しい中から持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」 (マルコ12・41、ルカ21・1)
* カテキズム 2445 :貧しい人々への合いと、冨への過度の愛着ないしその利己的な使用とは、相容れないものです。「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい。あなたがたの富は朽ち果て、衣服には虫がつき、金銀もさびてしまいます。このさびこそが、あなたがたの罪の証拠となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くすでしょう。あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした。ごらんなさい。畑を刈り入れた労働者にあなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています。刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました。あなたがたは、地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、ほふられる日に備え、自分の心を太らせ、正しい人を罪に定めて、殺した。その人は、あなたがたに抵抗していません」 (ヤコブ5・1-6)
*「自分の財産を貧しい人々に分かち与えないとすれば、それは貧しい人々のものを盜むことになり、彼らの生命を奪うことになります。わたしたちが持っている物はわたしたちのものではなく、貧しい人々のものです」 (202) 聖ヨハネ・クリゾストモ「ラザロについて」
*“金持ちとラザロ”のお話し(ルカ16・19-31)
*「貧しい人々に何か必要な物を与えるとき、わたしたちは自分のものを寛大に与えているわけではありません。彼ら自身のものを彼らに返しているだけです。そのときには、愛の行為を果たしているというよりも、正義の義務を果たしているのです」 (204) 聖グレゴリオ1世「司牧規定」
* カテキズム 447: 慈善のわざとは、身体的・精神的に困っている人々を助ける愛の行為です。
 YOUCAT 450 身体的な慈善のわざ”とは、飢えた人に食べさせ、渇いた人にのませ、裸の人に着せ、宿のない人を泊め、病人を訪ね、とらわれた人を解放し、死者を葬ることだ。
  YOUCAT 451精神的は慈善のわざ“とは、知らない人に教え、疑う人の相談に乗り、悲しむ人を慰め、罪ある人を諭し、侮辱する人を許し、不当な行為に忍耐強く耐え、生きている人と亡くなった人のために祈ること。
* 「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」 (ルカ3・11) 洗礼者ヨハネ
* 「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、陂心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさいというだけで、からだに必要なものを何一つ与えないなら何の役に立つでしょう」 (ヤコブ2・15-16)
* カテキズム2448:「貧しさにうちひしがれている人々は、とくに教会にとっても優先的な愛の対象となっています。信者たちが皆そうしたわけではありませんが、教会設立の当初から、彼らの救済、擁護、解放のための働きは絶えたことがありません。」
* カテキズム2449:「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえわたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」 (申命記15・11)
“正統な手段で、事業に成功し富める者となったとき、キリスト者として、貧しい人に経済的な援助を行うのことは、偉いことではなく、義務(当然のこと)である。”と言っているようです。これは、富裕層のみだけではなく、私達一人一人への問いかけです。自分はこの中のどの程度実践できているのであろうかと思うと、どうでしょうか?
520 “貧しい人々への愛は、物質的貧しさ、またさまざまな文化的、道徳的、宗教的貧しさに対する取り組みを通して実現されます“ 文化的、道徳的、宗教的まずしさとは、どのような意味でしょう?
文化的貧困:親が朝ごはんを食べさせないで学校に行かせることも含むようです。社会的貧困も含み、独居老人の孤独なども含みますが、これに対して夙川教会でも1人で生活している信徒のための集まりがあるようです。
宗教的貧困:日本、欧米でも信仰教育が行われなくなってきていること。これは、社会の世俗化と同時に司祭、求道者の著しい減少が要因の1つと考えられます。これは、教区だけでなく、ミッションスクールの状況にも当てはまるようです。 しかし、これらの貧困は、まず家庭の教育が重要であり、家庭でのしつけ、宗教教育(両親が子どもと一緒に毎週教会に行き、ミサに預かるなど)が大切だという意見がでました。

ここで、“第七のおきて:汝盗むなかれ”の箇所は終了となりました。この箇所で非常に多くの問題を認識・勉強することができました。しかし同時に、全て実行することが難しい課題が多いと感じました。