《「勉強会」便り》15

  1. 12月は、先月の「無原罪の宿り」(設問97)に続いて、マリアの処女受胎、終生の処女の教えを学んだのであるが、参加者のマリアに関するこれらの教えに対する関心は高く、いろいろな意見や疑問が述べられ、結局、97,98、99の三設問のみを討議するだけで、時間切れとなった。

  2. 設問97のルカ1:28の引用は英文ではfull of graceで新共同訳は「めぐまれた」となっているだけで、原意が正しく伝わらないように思うので、カッコ内に「恩寵に満たされた」と記すことにした。

  3. 98の設問「イエスの処女受胎とは・・」は原訳では「おとめがイエスを懐胎するということは」となっていた。英文はthe virginal conceptionで、この項までvirginをすべて「おとめ」と訳してきたのであるから、「同一用語、同一訳」の翻訳原則からすれば、ここでも「おとめ」とすべきだが、カテキズムでは496項で「処女受胎」と訳している。設問99の「終生の処女」も同様で、このような翻訳上の混乱が生じるのは、英語のVirginに当たる語を、「信条」では公式に「おとめ」を使い、公会議の公文書である「教会憲章」(第8章「キリストと教会の秘儀との中における神の母・処女聖マリアについて」))では「処女」という用語を採用していることに起因していると思われる。信条で使われている「おとめ」は教義上「処女」の意味であるが、現在の社会で、「おとめ」という言葉から「処女」を連想できる人間がだんだん少なくなってきている状況を考えれば、誤解を避ける意味からも、教会は用語を「処女」に統一すべきではなかろうか。

  4. 設問99の「終生の処女」の教えは、過去のどの要理書にもはっきりと記されている教えだが最新の要理書「カトリック教会の教え」(2003年刊)には、このことが記されていない。

  5. 12月度の感想文はI氏から頂いた。

 

12月勉強会感想

   本日の勉強会は設問97から100まで抄読したが、解釈に伴いその内容に対する議論が白熱し、大掃除の時間がきてしまい99の箇所で時間切れとなってしまった。設問98は乙女マリアがイエスを聖霊の力だけで懐胎するという箇所で11月の勉強会から継続している問題であった。乙女(処女よりももっと広い意味の若い女性という意味)か処女ということばが適切なのかということである。また設問99は乙女マリアがヨゼフと結婚してからも処女であり、福音書に記載ある[イエスの兄弟姉妹]という箇所はカトリック教会はイエスの従兄弟など近親者のことを指すという解釈をしている。これに対しプロテスタント教会は乙女マリアがヨゼフと結婚してからは一般の夫婦と同様の生活をし、イエスの弟妹を産んでいると解釈し、永遠の処女性を否定している。

   この議論の中で、マリアがイエスを産む前に処女でなければならなかった宗教的意味はあるのか? また、イエスを聖霊の力のみで出産した後にも永遠の処女でなければならなかった意味はあるのか?が疑問でありこれは教会がそのようにしなければならなかった理由があるのではないか。またそのような教会の姿勢が、男性優位で女性にのみ処女性(処女でなければ汚れているなど蔑視)や貞節を強いてきたことに繋がるのではないかという意見が出された。私はこの問題は非常に重要な問題であると考えている。

   まず、マリアの処女懐胎についてであるが、勿論自然科学的にみるとあり得ない話であるが、これはカトリックもプロテスタントもおよそ一致している信仰ゆえの真実であると思う。歴史的には(日本においてもかつてはそうであったが)男性の結婚前の性交渉には寛大で女性にだけ厳しいという社会情勢は存在していたと思う。しかし、現在のカトリック教会は女性にのみ厳しいという教えではないと理解している。さらに一般の封建的な考え方では汚れという考え方をするが、神の前においては男も女もみな罪を犯してしまう存在であり、決して汚れたという考え方ではない。であるから、男も女も神の御前では結婚前の性交渉は認められないというのが、旧約新約聖書およびカトリック教会の教えであることは明白である。しかしながら、人間は非常に弱いのですぐに欲望につまずいてしまう。男と女が存在する限りこの過ちを犯してしまうことが多いのも事実である。この罪を犯したから汚れるのではなく、神様と向き合って過ちを素直に認めていくことが大切だと教えていると理解している。 恋愛におちて深い関係になり、破局するということがあっても、それと向き合う姿勢が大事であり、それで教会から離れていくのは本末転倒であろう。しかしあくまで、教会の教えとして「性交渉は結婚に関係なく好きならば自由にしても良い」と言えばそれはキリストの教会ではなくなる。したがって、カトリック教会が、若い信徒に対してこのような問題を明確に教え、議論することは必要であると考える。

   それは離婚問題についてもいえるのではないかと思う。カトリック教会は離婚に対しては厳しいというのは事実だと思う。しかし、社会で生活していると、いろいろな人間的な事情で離婚をしてしまう或いはせざるをえない男女も当然いると思う。信者の方でそれ故にカトリック教会に居づらくなって、離れていくことがあるとしたら、非常に残念で教会はそれに対してもっと積極的に取り組む姿勢が必要だと思う。神は見捨てることは決してしないと思う。しかし、教会が「離婚は自由です。どうぞご自由に」とは言わないのは当然である。遠藤周作氏も同じようなことを述べている。

   しかしながら、マリアがイエスを出産してから、ヨゼフと夫婦であるにもかかわらず、永遠の処女であったという点に関しては、(大きな声では言えないが、)私も本当かな?というよりそのことが信仰上すごく意味の大きなことなのかは正直理解に苦しむところです。
   私自身は、幼児洗礼ではなくカトリックの環境で育ってきた人間ではありません。幼少時は親の親しい人にプロテスタント教会の人が多かったように思います。それと、中学高校でカトリックの学校へ進学し、洗礼を受けているからかもしれませんが、全知全能の神、イエスキリスト、聖霊と私達人間という概念が強いのです。したがって、マリア様や聖人にとりなしを求めるという気持ち(習慣)は薄いのだと思います。天使について教えてもらった記憶はありません。教皇の不可謬性については、ずっと後になって知りましたが・・・少なからず驚いたというのが本音でしょうか?
   ただ、カトリック教会がしっかりしていることはキリスト教全体にとって重要なことだと思います。

   最後に、この会に参加させていただいて一年になります。この会の為に下準備をしていただき、進行してくださる方々に感謝いたします。(本当に大変な労力でしょう)それと共に参加されている方々の博識が高く、語学能力が高い方々が多いことに驚いており、私自身はそれにやっとついていっているという感じです。私も、職業上、自然科学や医学生物学関係の英文を読むことはありますが、このような(文系の)聞き慣れない単語の多い難解な文章は皆様方の力を借りるのが一番だと思っています。さらに、聖書や教義に関しては素人であり、中学高校以来このような信仰上の問題に対して、質問や討議ができることが非常に私自身の信仰を深める上で有意義だと思っています。仕事があったりして全出席とはいきませんが、少なくとも今はできるかぎり出席しようと思っている会です。

以上