《「勉強会」便り》16

  1. 設問100の「・・マリアは、教会の象徴」の「象徴」は英文ではfigureであり、symbolではないので括弧内に「姿、かたどり」という語を入れた。「カトリック教会の教え」はマリアを「教会の象徴」という言葉で説明している(107頁)。また、教会憲章は53項でマリアは「信仰と愛の点で、教会の象型、最も輝かしい範型」と言っている。

  2. 1月の会合は、前月時間切れとなった設問100のみを検討し、その後は設問94から始まっている
    マリアに関する教え全般について、出席者の自由な意見交換の時間とした。マリアについての関心は非常に強く、活発な討論がされて、あっという間に時間が過ぎていった。この間の状況はW氏が書いて下さった感想文から読み取って頂きたい。

     

  3. W氏から頂いた感想文

       この会に参加するきっかけはある学校の先輩に誘われたことでした。もう長い間、公教要理を読むことも聞くこともなく、自分の信仰はこれでいいのだろうかと思っていた時だったので参加することにしました。
       この会は、カテキズムの要約の英語版を日本語に翻訳された文章を読んで、我々一般人が読んでおかしいとか、生硬に感じるとかいうことがないか、もっといい表現がないかを参加者で話し合い、信徒の手作りカテキズムを世に出すということを第一の目的としていると理解しています。それを果たすためには、当然書かれている内容を理解し、自分がそれを受け入れることが前提となります。しかし読んでいくと内容によっては素直にそのまま受け入れるのが難しいことも時々あるいはしばしばあるというのが実情であるように思えます。
       そんな時は、その内容についてのそれぞれの人が持っている考えを述べあうことになり、翻訳はなかなか進まないことも度々でてきますが、それはそれでこの会のとてもいいところだと私は思っています。
       今回は「マリアは終生処女であった」というところで参加者のなかに疑問があがって議論が盛り上がりました。ある参加者から「『マリアの処女受胎』は信じるが『終生の処女』というところは違和感がある。何故『終生処女』であらねばならないのかわからない。ここには、カトリック教会が男中心の社会でありそれ故の『処女』に対する過剰な憧れ尊重ないしは『処女』喪失に対する蔑視があるように感じられる」との意見が出されました。いつも会をリードされているKさんは「パウロは彼の書簡のなかで若い男女に対し神に仕えるために独身でいるように勧めている部分もあるが、現在のカトリック教会は結婚を秘蹟として定めており、結婚した人を処女よりも貶める考えはないと思う」と説明されました。私はこの話が出るまで「終生処女」ということに全く関心はありませんでした。私にとっては、イエスの御ことばが大切なのであってマリアはそのイエスの母であり、それ故にとりなしを願う御方であると しか思っておらず、「終生処女」であったかどうかは全く関心外でした。マリアに関するいろいろな教義が、教会の長い歴史のなかでひとつまたひとつと定められてきたということもこの会に来て初めて知りました。カテキズムには、この教義は聖書のどの箇所を根拠とし、どのような教父や教会博士たちの思索を経て、公会議で決定されたものであるかという注釈がついています。それを読むとなるほどと思うこともあれば、余計にわからなくなってしまうこともあります。しかし私はだからといって全てを突き詰めてゆく気にはなりません。全てを理解しようとすればそれこそ今から神学や聖書学を深く学ばなければならないでしょう。それははっきり言って不可能だと私は思ってしまうのです。自分がいい加減だなと思うこともありますが、多くの専門家、神学者、また信仰心あふれる人々が長期にわたり思索し教え全体のなかで矛盾なきものとして説明が可能であると受け入れ信仰していることなのだから自分が理解し得なくても私も受け入れておこうと思うのです。(受け入れはしますが、だからといってやはりそのようなことに関心はあまり湧きません。神の導きがあってのこととは思うのですが、なにか理論/論理の帰結のように感じてしまい、他にもっと関心を持たねばならない大切な教えがあると思うのです。)

       勿論、大海の一滴といえども知識を増すこと、理解を深めることはとても愉しいことであり、信仰もより確信に満ちたものとすることが出来ると思っています。
       幸いなことにメンバーにはとても博識な方が居られるのでその方のお話を聞いているだけでも新たな発見があります。一方で自分が発言することで他の人とは違った考えなんだとか、同じなんだとかいうことがわかるのも面白いものです。現状ではまだまだ自分の心のなかにお考えを秘めておられる方が多いように感じられますが、今後は参加者全員が一言づつでも発言されるようになり、「真理を愛する」より愉しい会になることを願っております。

以上